ダグラス・マッカーサーは保守でもあり、急進でもあった
マッカーサーとGHQの戦後改革とアメリカのポピュリズム(前編)
ニューディーラーが見つけた未開拓地、日本
やがてマッカーサーは、第二次世界大戦終結後に、連合国最高司令官として日本の占領統治を行うこととなる。その際、「青い目の大君」と呼ばれるほどの強力な権力を用いて行った戦後日本の改革は、実際には彼本来の保守的な政治的立場とは反対の、極めて「ニューディール」的、あるいは「ニューディール」以上に「リベラル」で急進的なものでさえあった。
マッカーサーとGHQは、財閥解体、農地改革、女性解放、労働組合の奨励など、アメリカの「革新主義」「ニューディール」といった改革派の運動が数十年をかけて達成してきたような改革を、終戦後わずか数年の間に、矢継ぎ早に再現していったのである。マッカーサーが敵視していた革命的な共産主義者の獄中からの解放も認めた。
戦後に保守派として大統領選挙に立候補しようと考えていたマッカーサーが、何故日本において「リベラル」を超えた急進的な改革を行ったのか。GHQ労働課長として戦後日本の労働政策改革に関わったセオドア・コーエン(1918~1983)は、著書『日本占領革命』(大前正臣訳・TBSブリタニカ)において、その理由を次のように説明している。
「まず、マッカーサーは軍隊式の命令服従を重視していた。第二に彼は、世界的人物として、自分の運命に深い信念をもっていた。第三に彼は、従前何を主張していたかは別として、1945年には反民主主義的な反動ではなく、根本的に旧式の愛国的なポピュリストであった」
この説明の意味を、一つずつ解きほぐしていこう。まず、マッカーサーは強大な権力を一手に握り、アメリカだけでなく連合国の最高司令官という地位に立ったとはいえ、基本的には軍人として本国からの命令への服従を怠らなかった。一方、アメリカ本国では、戦時中から対独占領政策と同時に対日占領政策も練られていたが、その計画と指令書を作成したのが「ニューディール」の政策を遂行していた当時の官僚たちだったのである。
それだけでなく、GHQ民政局で辣腕を振るい憲法草案の作成にも深く関わったチャールズ・ケーディス(1906~1996)や、日本の革新官僚と共に農地改革に関わったウォルフ・ラデジンスキー(1899~1975)、先ほど名を挙げた労働課のコーエンなど、GHQの実務に携わった者たちの多くは1930年代にルーズベルトの下で「ニューディール」官僚だった経歴を持っていた。
GHQという組織を築くにあたって、マッカーサーは本国から多くの官僚経験者を呼び寄せたが、好むと好まざるとに関わらず、この時代のアメリカにおける官僚経験者は「ニューディール」を経験した「ニューディーラー」ばかりだったのである。
戦時体制の好景気に湧いたアメリカ本国では、大恐慌から脱するための「ニューディール」は最早必要とされなくなっていた。「ニューディーラー」たちは、焼け野原と化した日本の復興という強い使命感を胸に、新天地へと大挙して渡ってきたのである。
1945年の9月から10月にかけて、アメリカ政府からマッカーサーに届けられた、日本占領のための「JCS 1380/15」と番号がつけられた指令書にはルーズベルト時代の精神とエッセンスが込められており、マッカーサーは一軍人として、「船いっぱいのニューディーラー」の部下たちと共に、その指令を忠実に遂行していったのである。
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